~この記事はあまり心地よい話ではありませんので,食事時には読まないで下さい~
ようやく繁忙期を抜けて時間を取れるようになった今日このごろ.初夏の連休を利用して二年間の懸案だった作業に取り掛かりました.
紙類資料の天敵は....そうですねぇ,光の照射でヤケたり,液体がかかることでシミ・シワが出来るといった物理化学的な問題もありますが,今回は生物として,黴(カビ)と害虫について.
どちらも古いものにはつき物ですが,カビはいたるところに胞子があるので,発芽しないように温湿度管理で対処します.カビの成長の水分源は空気中からまかなわれるのではなく,液体の水の存在が必要とのことで,急激な温湿度変化で結露することが問題なのだそうです.安定した条件では湿度70%までなら大丈夫らしい.常識的には湿度60%以下が目標,あとは資料の特性にもよりますが,紙自体も極端な乾燥下ではもろくなるようで50%以上が目安のようで,タペストリーや板絵や羊皮紙はさらに乾燥を嫌うので55%程度までが妥当でしょうか.
ただ,絶対的な胞子の数は増やしたくないので,カビが生えた後があって変色しているもの,カビ臭いものは持ち込まないに限ります.しかし,それが貴重書や大家の素描・銅版画だったら....
まずカビの生えた跡がアクティブかどうか,つまり菌糸が現在活動中なのかどうか? それにはムシメガネと日々の観察ですね.不幸にしてアクティブな場合は70%のエタノールがカビの菌糸を死滅させるのには有効といわれます.ちなみに文科省のカビ対策マニュアルはこちら
害虫ではありませんが,土蔵にある古書をかじるのはネズミで,かじられた跡はウマクイと呼ぶらしい.本の表紙には糊がついているので,それをかじって地図状の跡をつけるのはゴキブリ.けれども,そこそこ大きいものは駆除しやすい.
左:本の前小口の下方にウマクイ
中:ゴキブリの食害
右:いわゆる虫食い
しかして,和本をもっとも手ひどく荒らしてくれるのは....シミ(紙魚という虫)ですか?
いえいえ,これは表面の澱粉質,つまり糊をなめるだけらしい.
この小さな小さな虫が諸悪の根源,シバンムシです.紙が好物なのはほかにザウテルシバンムシがいるそうですが,たぶんフルホンシバンムシでしょう.古い本を買うと,オマケに付いてくることがあります.本当にあった話で,ある日,届いた和本をぱらぱらめくった後,机の上を見るとゴマ粒のようなものがゆっくり動いているではありませんか!そのときはつまんで成仏させてしまいましたが,もしやと思って調べると,やはり.そういえば,むかし米びつの中に何匹か見たことがあるのと見かけは同じ....食性の差があるようですね.自然界の多くのシバンムシは枯れ木を主食としているようで,額縁や彫刻などの木材のほうが好物だとか....
それからというもの,気が気ではなく,あの本やあの地図にどんどん虫穴が広がっている悪夢を何回見たことか.害虫はとにかく持ち込まないことが肝要です.
もともと置かれていた旧家の蔵や古書店の倉庫に巣くっているとすれば,入手先に注意することも勿論ですが,キチンと管理されている古書店さんであっても品の出入りは不可欠なので,あらたにムシ付きが入ってくることもあるでしょう.従って,新入りさんはかならず,白い紙を広げた上で検品し,ゴマ粒を探すこと,それから,幼虫と卵まで処理しなければなりません.
従来は燻蒸といって,毒性の強い薬品(臭化メチル)をバルサンのように密閉した収蔵庫で焚くという手法が一般だったそうですが(当館の油彩画もある美術館に貸し出し中に燻蒸していただいたことが10年以上前にありました),いまはオゾン層破壊の原因となるので,臭素(ブロム)系燻蒸剤の使用は全面禁止になっているようです.いずれにしても,住宅では健康被害の恐れがあり,はなから無理なこと.
それに変わる方法としては,電子レンジに数秒かけるという話もあり,理屈からは虫卵も駆除できるわけですが,時間をかけすぎると痛んでしまうらしく,彩色のない安手の本ならいざ知らず,高価なものはちょっと無理でしょうね.
あれこれ調べて到達したのが,脱酸素療法(ネーミングは適当です),正式には低酸素濃度処理法と呼ぶそうですが,密閉して酸素を奪い虫を窒息させる方法です.大学の研究室でも使用されている由で*,某社から販売されている脱酸素剤を規定量使用して,酸素チェッカーのタブレットの色を見ていくと,はじめ青紫色になっていますが,24時間ほどで赤みを帯びてきて,48時間ほどでピンクに変わり,脱酸素はうまくいったようです.
1は密閉袋の中にビニール小袋を二重に折り畳んだのまま入れてしまったため,酸素が残っていてまだ青みの強いチェッカー
結局ピンク色になるのには1週間ほどかかりました.さらに気密性が高いと,2週間かかったものもあり,個別包装はしないほうが得策です.
2は同じ状態でスタートした密閉袋内のむき出しのチェッカーで,1日後でやや赤み(赤紫色)がでている状態
3は2日後のチェッカーでピンク色になっていて無酸素化できたようです.下に敷きつめられているのが脱酸素剤ですね.
このタイプは一袋で2リットル分の空気中の酸素を奪うので,A4ファイルサイズの収納箱をそのまま密閉するのに10袋でなんとか有効であったようです.作業は可及的速やかに行わなければ,同剤の効果は落ちてしまいます.30分以内とのこと.密閉袋からはできるだけ空気を追い出した方が効率はよく,できれば複数の手でやったほうがいいし,掃除機などで吸引すると良いのだが,そんなことをするとムシ嫌いの当館学芸員の目が釣りあがってしまうことでしょう.
成虫(例のゴマ粒みたいな)>幼虫>卵の順で有効ですが,基本的に2週間,1ヶ月置けば虫卵も駆除できていると目されます.温度が20℃以下だとムシが休眠状態となって窒息しにくくなるようです.逆に温度が高いほど生物の酸素消費量は増えるので,この季節だともう少し短時間で済むことでしょう.ただ,小袋などにはいった和本もそこそこあったので,その脱酸素化にはもう少し時間がかかりそうで,2ヶ月ほどこのまま様子を見てゆくことにしました.
上の成虫の写真は,作業が終わってやれやれと扉を出て,隣室の白い壁をぼんやり見ていて....見つけてしまったものでした.作業中に少し開けていた扉の隙間から,飛んで出たものか....地図の大きなものや軸物は密閉袋に入らないので,一部はむき出しにしていたし,タペストリーはかかっているし....雌雄の成虫がランデヴーしていないことを祈るしかないなあ,がっかりの顛末.床の茶色と壁の青が恨めしい一日となりました.広いストックヤードが欲しいですね.成虫駆除だけならバルサンもいいかもしれないが,展示品への影響はないものか....
フェロモントラップもあるようですが,タバコシバンムシとジンサンシバンムシ用しか市販されていませんでした.
物を持つことは大変です.後世に貴重な文化財を引き継ぐことはもっと大変ですね.文化財の総合的有害生物管理(IPM)が日本の博物館でも導入されています.
蛇足ながら,現代では「虫干し」とは主として秋の穏やかな日和に陰干しすることを言うようですが,古来は7月に行われていたようで,成虫の出鼻の時期に資料をチェックして,虫害の拡大を防ぐという理にかなったものでした.土用虫干しというそうです.
*「東京学芸大学所蔵古書籍の虫害状況と保管法に関する研究」,2003
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資料(美術品・貴重書)の天敵の話
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