地球万国山海輿地全図[説] 長久保赤水 92x163cm 木版・筆彩 1785/8(天明5/8)年頃
浪速五軒板(浪速書林 細谷茂兵衛・藤屋[=浅野]弥兵衛・藤屋徳兵衛・河内屋喜兵衛・秋田屋太右衛門)
題辞 桂川 甫周 / 図説(説明) 常陽水府 赤水 玄珠 求図
マテオ・リッチ系の世界図は江戸の末期まで庶民に親しまれたが,それに最も貢献したのが赤水の世界図である.これには小図と呼ばれる40〜60cm幅程度の図が貢献した.幕末の世界地図の需要から刷れば売れるので,殆ど同一の異板といわれる図が海賊版も含めてあちこちの本屋から刊行されている.権威付けに「長玄珠述」の一行を入れることが多く,刊記も無いものが多いが,よく知られるものとしては山崎美成の名があるものもある.この小図のバリエーションについては後日の記事に譲る.
この赤水世界図の大図についても,多くの異板がある.例えば神戸市立博物館には秋岡・南波の両大コレクションが収蔵されているが,目録に拠ればいずれも五種の異板(おそらく共にA・B・D・E・Fか)が蒐集されていたらしい.ただし,それらについて比較検討された論文は管見の及ぶところでは確認できなかった.ここでは,知りえた範囲でその異版の分類を試みた.
「地球万国山海輿地全図[説]」 という名称は図説の内題による.題辞では山海輿地全図,下記B〜Fの題箋では「改正地球万国全図」なので,下記A以外はそれを採ることもある.
国土地理院・香川大図・横市大図(鮎沢)
[明大図(蘆田)は写図]
桂川 甫周によるとされる題辞 Fのものは15行.冒頭に六幅から成る利瑪竇(マテオ・リッチ)の坤輿万国全図を赤水が一図にしたと書かれている.
Fの刊記 この上部に「梅園文庫」という朱印が認められるが,梅園文庫は明治44年7月(p.49『大分年鑑 昭和24年』による.別にp.21大正8年『学事年報』では大正元年11月という記載もある)に杵築町の杵築向上会により私立図書館として創立され,現在は杵築市立図書館の一部となっているようだ.仮に三浦梅園(1723-1789)の所蔵品であれば大変興味深いのだが,同地の先人が寄贈されたものが市場に出たのかもしれない.
これらの刊行の後先については,赤水日本図における浪速板と東西板との関係の研究を待つべきかもしれないが,この世界図の方が赤水の日本図よりも先行していることは留意すべきで,浅野弥兵衛との付き合いがいつから始まったのかも重要であろう.
しかしながら,図説はすべてに共通しているので,その部分の版木の痛みの経過を把握すれば,板の後先はおのずと明瞭になる.現在入手しているB・E・Fのほか,出版物からの図像も考え合わせると,この順と思われるが,地図の部分についても検討してゆく必要がある.
平野 満 氏は,氏の蘆田文庫関連論文「長久保赤水の世界図板行の経緯」*において,赤水作『地球万国山海輿地全図説』は原目貞清『輿地図』(享保 5 年刊)を原図とし,『魯齊亜図』や『職方外記』などを参考として増補訂正し,天明元年から若干年を経て完成したと考えられ,本屋仲間の記録によれば,この初板の[実際の]蔵板者は津田右仲で天明 5 (1785)年頃出板され,同「地球大図・同小図」の板木は文化 4 (1807)年正月江戸書林山崎屋金兵衛の仲介によって水戸様御屋敷の津田右仲から大坂高麗橋壱丁目の書肆藤屋(浅野)弥兵衛が買い取って再板したとされる。
赤水は享和元(1801)年7月に逝去しているので,それまでに津田が板を所蔵していたことは理解できるが,ここで問題なのは,
「にもかかわらず,後刷とされる『地球万国山海輿地全図説』(大図)には『長久保氏蔵板・東都 山崎金兵衛・浪速 浅野弥兵衛』とある。『長久保氏蔵板』とされているので,大図の板木は赤水のもとに留まったままだったと考えられる。大図の板木は赤水の所蔵,小図の板木は津田右仲の所蔵ということだったのかも知れない。そう考えれば,右仲が藤屋弥兵衛に売り渡したのは小図の方だけということになり,大図の板木は赤水のもとに留まったまま,後年再び赤水蔵板として出板されたと考えることができる。」
と述べられている点である.Cの存在が明らかなので,大図の板木も文化4年に藤屋弥兵衛に売り渡されたと考えるのが妥当で,Cの刊行は文化4年以降となる.
日本付近 蝦夷図は最上徳内らの調査に基づいているという.これは天明5〜7年に数回行われたらしい.
オーストラリア大陸が未知であった時代の原図を踏襲し,時代遅れの南方大陸メガラニカが描かれている
欧州付近
*明治大学人文科学研究所紀要 第47冊, 2000
**ゆずりは 2002.8月号 p.74