2年ぶりに訪欧する許可が出たので,GW中3都市(グリニッジを加算すると4都市)を周遊してきました.日系A社ではGW期間中はいくらマイルが残っていてもなかなかエコノミー以外予約を受けてもらえないことが判明しています.さしあたって,往路ミュンヘン着,帰路ロンドン発で1年前から予約していた小旅行でした.
滞在中はすべての都市で雨がぱらついたかと思えば晴天もあり,朝は肌寒く昼は上着着用では暑いといった気候でした.
初日,滞在3度目のミュンヘンはAll about 「ドイツ博物館」だけ.事前に天球儀の展示場所をメールで聞いてみたのですが,届いた返事をみたのは帰国後でした.
事前に中央駅から博物館棟への行き方をウェブでみると,トラム16と書いてあったり18と書いてあったりします.どうもこの二つの路線はクロスオーバーしているようで,同じ電車に乗っていても中央駅を過ぎると路線表示が変わり,それに気づかずに見当外れのところに出てしまいました.この時期,停留所に注意書きとおぼしき掲示が出ていたので,運行の変更など特殊事情があったのかもしれませんが.ホテルで聞いたとおり,中央駅からは地下鉄でたしか3つめのイザルトール駅で降りて徒歩5分程度なので,これが最も速いし間違いが無いようです.
じつはこの博物館は展示場が市内に3箇所に分かれ,さすがエンジン・テクノロジーの国ドイツとあって,自動車や航空機に試乗できる会場がそれぞれあるらしいのですが,個人的関心はメインの博物館棟です.以前ツアーで一緒になった方に航空機のモデル作りが趣味の方がいらっしゃって,この博物館の実物の展示は模型のディティールに非常に役立つので来訪した旨のことを聞いていました.
B-1階(日本の一・二階)は建物全体が展示空間で,確かにこの中にも格納庫のように広大なスペースに実物の飛行機(フルスケールは中小型機ですが)などが飾られています.2-3階は回廊形式,4-6階が丸い塔の部分,ただし5階以上のプラネタリウムと天文台の部屋は現在改装中で閉館していました.
左:博物館はイザール川河畔に聳える塔が目印 右の塔ののなかには,あるものがあります.左の丸い塔はプラネタリウムと観測室のはず.
右:古地球儀の展示 これだけの明るさでの展示は珍しく見やすい
右:3階の天文展示室? 古観測機群や渾天儀もあります
左:2階の宇宙飛行関連の展示 さまざまな実物大の人工衛星群
天球儀を求めて〜ミュンヘン・ウィーン・ロンドンの旅(1)
ドイツ博物館-1 ミュンヘン・ウィーン・ロンドンの旅(2)
ドイツ博物館は日本で言えば,上野の国立科学博物館に近い存在です.博物館学という学問があり,扱う資料の分野によって博物館の特質が決まります.その意味で両者にはやや違いがあり,科博では自然史natural historyが含まれているので,鉱物・動植物の標本や恐竜博までやっていますが,ド博では理工学を中心とした科学技術や科学史が主体です(間違っていたらごめんなさい).
地上階(BF)の展示室は,入り口から直進してしまったので突然巨大な空間に帆船が,上空ではなくて体育館よりも高い天井の付近には飛行船が....
左:HF31 Maria号 1880年製の帆船 上に飛行船が小さく見える
右:Renzo号 1931年製 ヴェニスの蒸気タグボート. 船内に入ると蒸気機関を間近に見られます
もう少し進むと,戦闘機が並び,ああこれが模型マニア垂涎の,と息を呑みましたが,その後どちらに行ったらいいのか分かりません.
左:動力機関とあるのですが,矢印もあるのでつい奥に進んでしまいます
中:実物のジェット戦闘機群が....
右:これはメッサーシュミットMe 262 A-1a 1944年 アウグスブルク製だそうです
左・中:ジェット旅客機のジェットエンジンの構造が実物で分かります
右:クロークルームの奥に見えるのは,古式ゆかしい井戸の掘削機か?
とりあえず,もらった館内図で確認すると,入り口左がクロークルームでそこから回るのが模範ルートであることがわかりました.
ドイツ博物館-2 ミュンヘン・ウィーン・ロンドンの旅(3)
クロークルームを抜けると左手に「石油と天然ガス」(ビジュアルに向かず略します),地下に「採鉱」(見落としました)の展示があり,奥の右手が「金属」の展示です.
左:「金属」の第一室 ブロンズ彫刻の手や鉄製の武具など.写真正面に見える小窓を拡大すると....
右:貴金属の鋳造でした.ドイツの博物館はこのようなミニチュア模型が本当によく出来ています
先に進むと鉄の製造の歴史です.突き当たりに「溶接」,角を回って「素材検査」,レーザーの解説もあり,「機械工具」となります.
左:19世紀までの鉄と鋼鉄の精錬,手作業です.こちらは等身大の模型
中:1856年からインゴット塊として製造されるようになり,格段に生産が増します.奥がまだまだ遠い....
右:機械工具の展示,工場の中にいるようですね.
恐らくドイツの(バイエルン州の?)子供はここにきて,工場見学の変わりに様々な機械を目にして学ぶのでしょうね.
続いて,「動力機械」の展示になります.まずは自然エネルギーから.ここが前半の一番のお勧め.
左:このミニチュア模型の中央右を見てください.牛が歩みながら台の車が回る仕組みです.1馬力ならぬ1牛力ですね.
中:水力 小川などの流れを椀状のプロペラで受けて,軸が回転する仕組みですね.これは少し大きな模型
右:風力 各種の風車模型の展示です.大きいものは何メートルもありました.
左:Post mill[柱式風車] 12世紀末にフランドル・フランス・イギリス付近で開発されたものらしい.このなかでは最も古いものでしょう.(写真に写っている解説がピンボケで読めませんでした.間違っていたらごめんなさい)
中左:Trunk Windmill(Hollow[中空型]-postmillのことでしょうか.postmillの発展型だそうです) 1830年頃北ドイツに見られたもの.
中右:Smock mill[オランダ式風車].この模型は1880年頃北ドイツに見られたものです.中空型の最終発展したこの形式によって風向きの変化の問題が解決しました.風車の付いた頭部だけが回転して向きを替え,風車の回転はカムを介して塔内の軸を回す仕組みです.17世紀オランダで発達しましたが,19世紀に蒸気機関・内燃機関の発達,さらには電化によって衰退します.解説によるとドイツ内の風車は1882年に19000台あったものが1925年に15000台,現在?においては5000台ほどだそうです.
右:Tower mill[塔型風車] 13世紀末までに出現したそうです.これも写真が読めませんでした.塔型は二番目に古いものかとも思いますが,風車の形式も異なるし最も古そうに見え,並んでいる順でも最古かも.
内燃機関を経て,機械部品の通路を抜けると「電力」の展示に移ります.
左:蒸気機関・・・ですね.
中:「電力」の展示,機械はモーターなどだと思いますが.
右:奥の部屋に鎮座する怪しげな機械は? 部屋に入ったときには演出が終わったあとでした.
これで1階を半分以上,見終わったことになります.
ドイツ博物館-3 ミュンヘン・ウィーン・ロンドンの旅(4)
ホール方面から向かって右奥に向かいます.照明を落とした一角は「ドイツの未来大賞」.そこを抜けると広い階段教室のような空間に出ます.
左:「ドイツの未来大賞」 左にはドイツの著名なエンジニアリング企業の名前が掲示されています.奥に人だかりが出来ていますが....展示内容はよく分かりませんでした
右:この場所ではナノテクやバイオテクノロジーの講座が開かれるそうです.奥の宇宙基地のような球体はDNA研究所らしく,中では研究者の方が仕事中で,勿論入れません.右手のオブジェは骨梁構造を表現しているようです.
左:手前の壁には生体応用技術として最新の義足の展示
中:このホールを出て,戻りは「ロボット工学」の部屋ですが,日本の展示会に比べると,動いていないためか見劣りします.
右:鉄道模型パノラマの部屋 ハンブルクでもそうでしたが,ドイツの博物館ではよく眼にしますね.
左:トンネル工学 この手前を左に曲がるとエレベータ・階段室ですが....
中:上を見上げている子供
右:6階層のもっと上からワイヤーが降りています(画像ななめに右上方向へ)
フーコーFoucaultの振り子でした.じつは,外から眺めた右の高い塔がこの部分です.
19世紀前半に提唱されたコリオリの力という物理学の概念があり,地球の自転によって,極寄りと赤道寄りのわずかな差でもその場所に存在する物には,赤道寄りのほうが自転と逆方向に残ろうとする慣性力が大きいため,北半球では時計回りに振り子は回転します.
振り子が並んだピンを倒していくので,一種の時計になっています.回転が1周するのにかかる時間は、その場所の緯度θ°に依存し,24時間/sinθで計算されます.ミュンヘンの北緯は48°でsinθ=0.743から32時間で,ここでは100度くらいが9時間相当と表示されています(矢印は方向を示すだけ).素朴な疑問ですが,毎日開館直前にピンを戻し,台を回転して場所合せをするのでしょうね.
水力工学と橋のセクションは改装中のため,以上で地上階は終了,ここから1F(2階)に上がります.地上階は工学中心でしたが,上の階はもっと古典的な意味でアカデミックかもしれません.
ドイツ博物館-4 ミュンヘン・ウィーン・ロンドンの旅(5)
1F(二階)に上がるとやはり閉鎖中の展示室が続き,途中,「薬学」の部屋に出ましたが,順路からすると最後のところなのでざっと見てから,また後で写真をと思いましたが結局そのままとなりました.さすがにだいぶ疲れてきたようです.
気が付くと通路は「物理学」と「エネルギー工学」の狭間ですが,左の部屋を見ると,おお!
左:天体望遠鏡が鎮座した部屋です.が,扉は閉鎖されている....
中:ここは「アカデミー・コレクション」の部屋ですが,展示準備中.遠目にしか見えません.
右:望遠レンズで写真を撮ってみると,向かいの壁の棚には肖像の横にたぶんリング型日時計Universal ring dial が置かれているようです.
左:写真で見ると,壁の解説には「バイエルン(英語ではバヴァリア)科学アカデミーの科学機器」の展示である旨が書かれていました.
中:この部屋が左,奥が「エネルギー工学」,戻ると「物理学」
右:「エネルギー工学」の入り口には人間が産み出す電気やCO2量の表示.奥は太陽光エネルギーや核エネルギーなどの展示でした.
戻って,「物理学」のセクションは迷路のように入り組んでいます.途中でどこかわからなくなりました.
左:物理法則の教材の体験型展示 科博にもありますね.
中:アルキメデスの原理
右:中にはアンティーク機器もあります.これは1656年に発明されたクリスティアーン・ホイヘンス式の振り子時計の振り子(左上に1673年刊行の解説書の写真).この辺りのキャプションや解説はドイツ語しかありません.
うろうろしていると,また異質な空間が現れます.
科学者の書斎を再現したものと思われますが,ここも進入禁止.奥に渾天儀と地球儀が見えます.入れてくれと,係員のおじさんに頼んだのですが,「ダメダメ,・・・あれは複製だよ」と.
左の写真は,腕を伸ばしてあたかも部屋の中にいるようなアングルでとってみました.
左:渾天儀のアップ 水平環の台が八角形なのでドイツ製かと思いましたが,台は状態がどうも近代の複製のようです.球のほうはオリジナルかも.
右:地球儀も複製でしょうかね? 台の下にはコンパスが入る穴も付いていますが.
この地球儀の水平環の板に張られた紙のはがれ具合は決して複製ではなく,明らかにオリジナルでした.帰国後に再確認したところ,これは有名なブラウの68cm地球儀で,1645/48年頃に製作された第4版でした.
この特徴としては(1)左上に日本が描かれていますが,蝦夷は変形して縦長く,本州よりはかなり北に描かれています.(2)左下のオーストラリア大陸はまだ探検され尽していないので,南東が不完全です.(3)右上の北米のカリフォルニアは半島でなく島として描かれています.
2012年のオークションレビュー
2012年のOMPオークション・レビューを書くのを忘れていた.昨年は絵画蒐集どころではなくて,生涯設計の転換期となる年であった.勿論,それは良い意味で自身の存在意義の記憶に繋がることであるのだが,初めて一点の絵画も購入しなかった年となった.かつてないほどの円高であったことを思えば残念なことであるが,より安価な地図関係の蒐集に軸足が移っていた感もある.
S社のサイトはまた最近模様替えされて,お気に入りに登録していたロットのリンクが切れてしまっている.
NYでの1月のセールN08825では,レンブラントの銅版画「書斎の聖ヒエロニムス」の銅版原版が売りに出されていた.その数年前にTEFAFで見かけて以来,ベルギーの某画廊と購入交渉をしていたのだが,金額も予算ぎりぎりで,結局,後世の手がかなり入っていて版の状態が芳しくないことから,見送っていた.今回も結局不落札で終わっている.同じセールでヘルデルの「説教するキリスト」,またラストマンの「よきサマリア人」やエークハウトの作品が出ていたが,いずれも見積り額は高めで不落札だったようだ.
C社では1月のセールで,どちらも高額すぎて購入対象ではないが,ダウの佳品「クラビコードを弾く若い女」は保存状態もよく評価額$1-200万に対して,P込$333万ほどで落札されていた.
また,ヤン・ブリューゲル?世による「アダムとイヴの物語」連作6点は,蒐集対象としては良いが質が今ひとつで,見積もり$70-90万に対し下限程度で落札.やや関心を持った作品として,シモン・デ・フォッスの「無知と中傷から絵画を守るミネルバとキュリー」は評価上限のP込$50000で落札.
春以降は天球儀や地図関係のセールのほうに関心が向いていて,お気に入りに残した古典絵画が殆どなかった.
10月のD社のセールでは,1994年に日本でも例えば東京ステーションギャラリーなどで展示されたフリンクの「狩人に扮した若い男の肖像」が注目に値する.ズモウスキ教授絶賛のフリンク後期(1954年頃)の作品であるものの,写真で見る限りではあまり魅かれなかった.評価額EUR12-15万に対しP込でEUR14.7万で落札されていた.このセールではほかに,ヤン・ブリューゲル?世の「キリストの誘惑」は状態が気になったがEUR15万ほどで落札され,ヤン・コックの「ロトとその娘たち」はEUR3万,マイナーだがスプレーウェンの「学者のいるヴァニタス画」もEUR1.4万とリーズナブルな金額で落札されていた.
C社12月のセールでは,パティニール工房とされる「聖クリストフォロス」にかなり関心があったがGBP2-3万に対し,P込GBP3.7万で落札された.
球儀や地図,天文分野で眼に留まった=参加はしたが変えなかったもの,を少し上げておく.
左:フランスはNicholas Bion (1652-1733)の天球儀.12インチ(30cm)とサイズもよく,1700年頃つまりぎりぎり17世紀の製作?,台もオリジナルで図柄もよく,評価額もGBP5-8000とリーズナブル,ただし,どうも球が木や張子ではなく,近年別のものに張りなおされているとのことで,やや躊躇した.結局,落札額P込GBP20000で割り込めなかった.
中:P.MelaのDe orbis situ. Paris : [Christian Wechel], juin 1530.Pierre Berès à livre ouvert というC社パリの12月のセール.
有名な(知る人ぞ知るという意味)1471年製作のダブル・ハート型世界図の後版が掲載されている.それ故,初版でないためか控えめすぎる評価額EUR2-3000に対し落札額はP込EUR21250に跳ね上がった.見送ったが,そのくらいが妥当かもしれない.
右:Johannes KEPLERの「ルドルフ星表」 Tabulae Rudolphinae, quibus astronomicae scientiae, temporum longinquitate collapsae restauratio continentur. Ulm: Jonas Saur, 1627.C社ロンドンの12月のセール.
師ティコ・ブラーエから託された長年の観測結果の結実であり,偉大なケプラーの惑星運行の理論の基となったデータの初版初刷である.科学史上の価値が大きいが,表紙絵はTemple of Urania の銅版画で,付いているものが多くはないし,これほど状態の良いのは稀らしい.
GBP12-18,000に対しP込GBP18,750で,この前後に18世紀の地球儀を購入したため,見送りとなった.
資料(美術品・貴重書)の天敵の話
〜この記事はあまり心地よい話ではありませんので,食事時には読まないで下さい〜
ようやく繁忙期を抜けて時間を取れるようになった今日このごろ.初夏の連休を利用して二年間の懸案だった作業に取り掛かりました.
紙類資料の天敵は....そうですねぇ,光の照射でヤケたり,液体がかかることでシミ・シワが出来るといった物理化学的な問題もありますが,今回は生物として,黴(カビ)と害虫について.
どちらも古いものにはつき物ですが,カビはいたるところに胞子があるので,発芽しないように温湿度管理で対処します.カビの成長の水分源は空気中からまかなわれるのではなく,液体の水の存在が必要とのことで,急激な温湿度変化で結露することが問題なのだそうです.安定した条件では湿度70%までなら大丈夫らしい.常識的には湿度60%以下が目標,あとは資料の特性にもよりますが,紙自体も極端な乾燥下ではもろくなるようで50%以上が目安のようで,タペストリーや板絵や羊皮紙はさらに乾燥を嫌うので55%程度までが妥当でしょうか.
ただ,絶対的な胞子の数は増やしたくないので,カビが生えた後があって変色しているもの,カビ臭いものは持ち込まないに限ります.しかし,それが貴重書や大家の素描・銅版画だったら....
まずカビの生えた跡がアクティブかどうか,つまり菌糸が現在活動中なのかどうか? それにはムシメガネと日々の観察ですね.不幸にしてアクティブな場合は70%のエタノールがカビの菌糸を死滅させるのには有効といわれます.ちなみに文科省のカビ対策マニュアルはこちら
害虫ではありませんが,土蔵にある古書をかじるのはネズミで,かじられた跡はウマクイと呼ぶらしい.本の表紙には糊がついているので,それをかじって地図状の跡をつけるのはゴキブリ.けれども,そこそこ大きいものは駆除しやすい.
左:本の前小口の下方にウマクイ
中:ゴキブリの食害
右:いわゆる虫食い
しかして,和本をもっとも手ひどく荒らしてくれるのは....シミ(紙魚という虫)ですか?
いえいえ,これは表面の澱粉質,つまり糊をなめるだけらしい.
この小さな小さな虫が諸悪の根源,シバンムシです.紙が好物なのはほかにザウテルシバンムシがいるそうですが,たぶんフルホンシバンムシでしょう.古い本を買うと,オマケに付いてくることがあります.本当にあった話で,ある日,届いた和本をぱらぱらめくった後,机の上を見るとゴマ粒のようなものがゆっくり動いているではありませんか!そのときはつまんで成仏させてしまいましたが,もしやと思って調べると,やはり.そういえば,むかし米びつの中に何匹か見たことがあるのと見かけは同じ....食性の差があるようですね.自然界の多くのシバンムシは枯れ木を主食としているようで,額縁や彫刻などの木材のほうが好物だとか....
それからというもの,気が気ではなく,あの本やあの地図にどんどん虫穴が広がっている悪夢を何回見たことか.害虫はとにかく持ち込まないことが肝要です.
もともと置かれていた旧家の蔵や古書店の倉庫に巣くっているとすれば,入手先に注意することも勿論ですが,キチンと管理されている古書店さんであっても品の出入りは不可欠なので,あらたにムシ付きが入ってくることもあるでしょう.従って,新入りさんはかならず,白い紙を広げた上で検品し,ゴマ粒を探すこと,それから,幼虫と卵まで処理しなければなりません.
従来は燻蒸といって,毒性の強い薬品(臭化メチル)をバルサンのように密閉した収蔵庫で焚くという手法が一般だったそうですが(当館の油彩画もある美術館に貸し出し中に燻蒸していただいたことが10年以上前にありました),いまはオゾン層破壊の原因となるので,臭素(ブロム)系燻蒸剤の使用は全面禁止になっているようです.いずれにしても,住宅では健康被害の恐れがあり,はなから無理なこと.
それに変わる方法としては,電子レンジに数秒かけるという話もあり,理屈からは虫卵も駆除できるわけですが,時間をかけすぎると痛んでしまうらしく,彩色のない安手の本ならいざ知らず,高価なものはちょっと無理でしょうね.
あれこれ調べて到達したのが,脱酸素療法(ネーミングは適当です),正式には低酸素濃度処理法と呼ぶそうですが,密閉して酸素を奪い虫を窒息させる方法です.大学の研究室でも使用されている由で*,某社から販売されている脱酸素剤を規定量使用して,酸素チェッカーのタブレットの色を見ていくと,はじめ青紫色になっていますが,24時間ほどで赤みを帯びてきて,48時間ほどでピンクに変わり,脱酸素はうまくいったようです.
1は密閉袋の中にビニール小袋を二重に折り畳んだのまま入れてしまったため,酸素が残っていてまだ青みの強いチェッカー
結局ピンク色になるのには1週間ほどかかりました.さらに気密性が高いと,2週間かかったものもあり,個別包装はしないほうが得策です.
2は同じ状態でスタートした密閉袋内のむき出しのチェッカーで,1日後でやや赤み(赤紫色)がでている状態
3は2日後のチェッカーでピンク色になっていて無酸素化できたようです.下に敷きつめられているのが脱酸素剤ですね.
このタイプは一袋で2リットル分の空気中の酸素を奪うので,A4ファイルサイズの収納箱をそのまま密閉するのに10袋でなんとか有効であったようです.作業は可及的速やかに行わなければ,同剤の効果は落ちてしまいます.30分以内とのこと.密閉袋からはできるだけ空気を追い出した方が効率はよく,できれば複数の手でやったほうがいいし,掃除機などで吸引すると良いのだが,そんなことをするとムシ嫌いの当館学芸員の目が釣りあがってしまうことでしょう.
成虫(例のゴマ粒みたいな)>幼虫>卵の順で有効ですが,基本的に2週間,1ヶ月置けば虫卵も駆除できていると目されます.温度が20℃以下だとムシが休眠状態となって窒息しにくくなるようです.逆に温度が高いほど生物の酸素消費量は増えるので,この季節だともう少し短時間で済むことでしょう.ただ,小袋などにはいった和本もそこそこあったので,その脱酸素化にはもう少し時間がかかりそうで,2ヶ月ほどこのまま様子を見てゆくことにしました.
上の成虫の写真は,作業が終わってやれやれと扉を出て,隣室の白い壁をぼんやり見ていて....見つけてしまったものでした.作業中に少し開けていた扉の隙間から,飛んで出たものか....地図の大きなものや軸物は密閉袋に入らないので,一部はむき出しにしていたし,タペストリーはかかっているし....雌雄の成虫がランデヴーしていないことを祈るしかないなあ,がっかりの顛末.床の茶色と壁の青が恨めしい一日となりました.広いストックヤードが欲しいですね.成虫駆除だけならバルサンもいいかもしれないが,展示品への影響はないものか....
フェロモントラップもあるようですが,タバコシバンムシとジンサンシバンムシ用しか市販されていませんでした.
物を持つことは大変です.後世に貴重な文化財を引き継ぐことはもっと大変ですね.文化財の総合的有害生物管理(IPM)が日本の博物館でも導入されています.
蛇足ながら,現代では「虫干し」とは主として秋の穏やかな日和に陰干しすることを言うようですが,古来は7月に行われていたようで,成虫の出鼻の時期に資料をチェックして,虫害の拡大を防ぐという理にかなったものでした.土用虫干しというそうです.
*「東京学芸大学所蔵古書籍の虫害状況と保管法に関する研究」,2003
地球万国山海輿地全図[説] (改正地球万国全図) 長久保赤水
地球万国山海輿地全図[説] 長久保赤水 92x163cm 木版・筆彩 1785/8(天明5/8)年頃
浪速五軒板(浪速書林 細谷茂兵衛・藤屋[=浅野]弥兵衛・藤屋徳兵衛・河内屋喜兵衛・秋田屋太右衛門)
題辞 桂川 甫周 / 図説(説明) 常陽水府 赤水 玄珠 求図
マテオ・リッチ系の世界図は江戸の末期まで庶民に親しまれたが,それに最も貢献したのが赤水の世界図である.これには小図と呼ばれる40〜60cm幅程度の図が貢献した.幕末の世界地図の需要から刷れば売れるので,殆ど同一の異板といわれる図が海賊版も含めてあちこちの本屋から刊行されている.権威付けに「長玄珠述」の一行を入れることが多く,刊記も無いものが多いが,よく知られるものとしては山崎美成の名があるものもある.この小図のバリエーションについては後日の記事に譲る.
この赤水世界図の大図についても,多くの異板がある.例えば神戸市立博物館には秋岡・南波の両大コレクションが収蔵されているが,目録に拠ればいずれも五種の異板(おそらく共にA・B・D・E・Fか)が蒐集されていたらしい.ただし,それらについて比較検討された論文は管見の及ぶところでは確認できなかった.ここでは,知りえた範囲でその異版の分類を試みた.
「地球万国山海輿地全図[説]」 という名称は図説の内題による.題辞では山海輿地全図,下記B〜Fの題箋では「改正地球万国全図」なので,下記A以外はそれを採ることもある.
国土地理院・香川大図・横市大図(鮎沢)
[明大図(蘆田)は写図]
桂川 甫周によるとされる題辞 Fのものは15行.冒頭に六幅から成る利瑪竇(マテオ・リッチ)の坤輿万国全図を赤水が一図にしたと書かれている.
Fの刊記 この上部に「梅園文庫」という朱印が認められるが,梅園文庫は明治44年7月(p.49『大分年鑑 昭和24年』による.別にp.21大正8年『学事年報』では大正元年11月という記載もある)に杵築町の杵築向上会により私立図書館として創立され,現在は杵築市立図書館の一部となっているようだ.仮に三浦梅園(1723-1789)の所蔵品であれば大変興味深いのだが,同地の先人が寄贈されたものが市場に出たのかもしれない.
これらの刊行の後先については,赤水日本図における浪速板と東西板との関係の研究を待つべきかもしれないが,この世界図の方が赤水の日本図よりも先行していることは留意すべきで,浅野弥兵衛との付き合いがいつから始まったのかも重要であろう.
しかしながら,図説はすべてに共通しているので,その部分の版木の痛みの経過を把握すれば,板の後先はおのずと明瞭になる.現在入手しているB・E・Fのほか,出版物からの図像も考え合わせると,この順と思われるが,地図の部分についても検討してゆく必要がある.
平野 満 氏は,氏の蘆田文庫関連論文「長久保赤水の世界図板行の経緯」*において,赤水作『地球万国山海輿地全図説』は原目貞清『輿地図』(享保 5 年刊)を原図とし,『魯齊亜図』や『職方外記』などを参考として増補訂正し,天明元年から若干年を経て完成したと考えられ,本屋仲間の記録によれば,この初板の[実際の]蔵板者は津田右仲で天明 5 (1785)年頃出板され,同「地球大図・同小図」の板木は文化 4 (1807)年正月江戸書林山崎屋金兵衛の仲介によって水戸様御屋敷の津田右仲から大坂高麗橋壱丁目の書肆藤屋(浅野)弥兵衛が買い取って再板したとされる。
赤水は享和元(1801)年7月に逝去しているので,それまでに津田が板を所蔵していたことは理解できるが,ここで問題なのは,
「にもかかわらず,後刷とされる『地球万国山海輿地全図説』(大図)には『長久保氏蔵板・東都 山崎金兵衛・浪速 浅野弥兵衛』とある。『長久保氏蔵板』とされているので,大図の板木は赤水のもとに留まったままだったと考えられる。大図の板木は赤水の所蔵,小図の板木は津田右仲の所蔵ということだったのかも知れない。そう考えれば,右仲が藤屋弥兵衛に売り渡したのは小図の方だけということになり,大図の板木は赤水のもとに留まったまま,後年再び赤水蔵板として出板されたと考えることができる。」
と述べられている点である.Cの存在が明らかなので,大図の板木も文化4年に藤屋弥兵衛に売り渡されたと考えるのが妥当で,Cの刊行は文化4年以降となる.
日本付近 蝦夷図は最上徳内らの調査に基づいているという.これは天明5〜7年に数回行われたらしい.
オーストラリア大陸が未知であった時代の原図を踏襲し,時代遅れの南方大陸メガラニカが描かれている
欧州付近
*明治大学人文科学研究所紀要 第47冊, 2000
**ゆずりは 2002.8月号 p.74
江戸時代の伊予松山城下之図
今回はローカルな話題です.といっても,ここではいつもトリビアかもしれませんが.
最近,江戸期の松山城下之図を入手しました.江戸図以外の町図は,蒐集及び研究の対象からは外していたのですが,郷里に近いので調べることにしました.
松山城は慶長7(1602)年から,いまの伊予郡松前町にあった松前城(正木とも真崎城とも)を移転し,加藤嘉明の築城になる平山城で,その石垣の美しさと安政期に再建された天守閣などにより,名城として知られています.勝手なリンクで失礼かと思いますが,こちらやこちらやこちらなどが大変参考になります.
天守は当初五層でしたが,転封となった桑名藩主・松平定行が寛永12(1635)年に三層に改築し,本図を含めて殆どの現存する城の図の天守閣は三層となっています.
このような城下図では,まず作成の時代同定が重要です.松山市文化・スポーツ振興財団の松山城二之丸史跡庭園の歴史のサイトに「二之丸古絵図」として,宝暦・嘉永・文久各期の城下図が伊予史談会より提供されているようです.また,松山市教育委員会による「松山市史料集」の2巻(文久図)・3巻(寛永図)・13巻(宝暦図・嘉永図)に付録として立派な複製地図が用意されています.また,坂の上の雲ミュージアムの「いにしえマップ」には,寛永・元禄各期の城下図も見ることが出来ます.
城下図自体は宝暦図に近いという印象を持っています.
松山市史料集第3巻を調べてみました.文化12(1815)年頃に成立した「松山古今役録」は松平家初代から役録ですが,その「上」に目を通したところ,
・城の南,堀の内などの屋敷の家臣名には
竹内久右衛門 大名分 天明1[1781]
吉田十八太 大名分 宝暦7[1757], 年寄役 寛延1[1748] , 御奉行 寛文9[1669]
稲川八右衛門 年寄役 寛政2[1790], 六番番頭 宝永3[1706], 七番番頭 天明4[1784], 御奉行 延宝7[1679]
蜂谷忠兵衛 年寄役 安永6[1773]
佃 九兵衛 弐番番頭 寛政13[1801], 七番番頭 寛文8[1668], 七番番頭 天明5[1785]
吉田 十郎右衛門 六番番頭 延宝7[1679]
舟橋 源右衛門 大目付 享保9[1724]
その他,山田・久松・三浦などもあるが,名前が役録と同定できない.
などが見受けられ,襲名の世襲があったと推測されることから,最大公約数として特に共通名が多いのは寛文〜延宝頃か,あるいは安永〜寛政期のようです.
あるいは舟橋家は元文年間に追放されている(一族全員ではないかもしれない)ようなので,舟橋源右衛門は一代名の限りだった可能性もあり,享保年間の地図である可能性もありそうです.
奥平家の名前が判然としませんが,長左衛門らしく,宝暦図と同一の書体で,寛永図では明瞭でした.嘉永図では奥平弾正になっています.当時も家老格か,堀の外で,大名格の家臣だったのか.
・寺院については,宝暦図にあった港町の南の永福院など3つの朱塗りが無くなっており,それは嘉永図でも同様でした.
・立花橋(橘橋)がかかっていなかったことは,僧・尭音が文政年間に架橋したということであれば,それ以前と考えられます.なぜか宝暦図には橋が描かれていて,嘉永図にはかかれていません.何度か流されたものか,省略されたものかもしれません.
以上から,結論は出ないものの,暫定的には安永〜寛政期を最有力とすべきかと考えています.
今後,同書に掲載されている「松山俸禄」は文化五(1808)年,「松山歴奉略記」は正徳〜弘化期,「松山武鑑」は嘉永五(1852)年の成立で,そのほか,「明暦年間松山御支配帳」は明暦四(1658)年二月の役録,「懐中使覧 松山役録」は寶永元(1704)年なども当たっていく必要がありそうです.
残念なことに,地図の余白や裏面に手紙の下書きと思しき落書きが多数書かれています.これらについては,絵図が描かれてから時代が下ったものと推測され,「松平薩摩守様」(島津薩摩家)・「越中守様」(久松桑名家)・「隠岐守様」(久松松山家),など久松家に繋がる大名の宛名と,「秋山九十九」「秋山〇〇〇」の名があります.
秋山九十九は「松山古今役録」,及び,寛政元(1789)年の「松山分限帳録」では御側役で(松山市史料集第3巻 p.769・830),後者では見習定府とあるので,天明〜寛政の頃の手習いの跡でしょうか.もしかしたら,この地図は秋山家に伝わっていたものかもしれません.
久松家からは時代は特定できないものの,島津との姻戚では三代定頼の婿として薩摩守綱久のみとなるようなので,万治〜寛文の頃の話であれば,面白いのですが空想の域を出ません.
仮想展覧会「天界の詩」(1)西洋編



(星図は1532年) 南・北天球図 4




1〜6

1〜5

1〜7







ホンディウス デ・ロッシ版
1615 20cm 19







オランダ製卓上反射望遠鏡
観測器具 ファン・デル・ビルト 1770-90 真鍮製
如何でしょうか.画像の無い資料は現時点で用意できていないのですが....
このテーマの次回は東洋編,おもに和物です.
ノロノロとおなかにパンチ
年の瀬に某社に製品説明会をお願いしたら,その2日後の朝に下腹部に違和感,弁当を食べていた家内も吐き気と下痢がすると連絡してきたので,いやな予感がしました.すぐに参加したメンバーに連絡を取ったところ,あの人もこの人も....ということで,仕出し弁当のノロだろうなあ,ということに.仕事柄,すぐに保健所に連絡を取ったのですが,土曜日でスムーズにはゆかず,夕方には悪寒,胃痛,下痢でなかなか大変でした.3日間の絶食を強いられ,そのあとも,手洗いその他,子供にうつさないように大変な配慮を続け,放置した残務のためようやく休日の月曜に仕事場へ,そこで保健所の方と会う仕儀となりました.
その後の経過は省略しますが,便からノロが確認されたと保健所の別の担当者が報告に見えた折,内部の人間以外に説明会に来た担当者も発症していてその人とは初対面であったことはすでに伝えてあったにもかかわらず,どうもその認識が甘いのか,まだ食中毒とは断定できないといいます.仕出弁当しか接点の無い複数の人間が数時間内というピンポイントで嘔吐・下痢・胃痛・発熱という症状を呈した場合,原因が特定できていない段階でも食中毒はほぼ確実で,科学的にそうでない確率は無視できるほど小さいのですが....
結局,仕出弁当屋さんの職員の一人がその前日か何かに消化器症状で医療機関を受診したが,ドクターに何の根拠もなくノロではないといわれていたらしいことが伝わってきました....
時節柄,外食や弁当類を食べるときはよく手を洗って,なおかつ,手づかみでは食べない・指は舐めないよう,お気を付けください.そうしていても,ウィルスが加熱後に食品についてしまっていたらお手上げなのですが.
大みそかにふさわしくない話題になってしまいましたが,皆様よいお年をお迎えください.
江戸時代の日本地図 (1)石川流宣の日本図
(1)本朝図鑑綱目 貞享4(1687)年 相模屋太兵衛 初版 60x130cm
日本図を地形の正確さから離れて,全体をデフォルメし輪郭に装飾的な曲線を多用した独特の美感で仕上げている.さらに,地図中には宿場や名所を記載した道中図としての性格をもたせると共に,各藩の大名や禄高を記して,武鑑としても使用できるよう配慮して,買い手のニーズに応えることに重点を置いている.周囲の余白には江戸から各地への距離などの一覧表が掲載されている.
初期の本図は,多彩色で国を色分けし海を青色で仕上げられた美術品的価値のあるものが多く,価値のある地図として貴人への贈答品に使用されたものもあろう.かなり高価なため,入手は保留.
本図は,その武鑑的性格から,数年毎に大名の異動などを正して改訂再板されていく.元禄15(1702)年には大日本正統図鑑と名を変えて相模屋から改板されるが,正徳2年に板は山口屋に移り,短期間再板された.
これとは別に,京都の書肆で地図出版に長けた林氏吉永が貞享5年に同図を出版している.秋岡によれば,相模屋板と同一の内容(同版)とされているが,同一の板かどうかは吟味する必要があるかもしれない.その後の宝永7(1710)年板以降は70x165cmほどに拡大され,延享年間(1744-1748)まで出版された.
・延享改正板 林氏吉永 印面67x164/紙面68x165cm
手彩色で黄・緑(褐色に褪色)・朱が入っている.
秋岡によると延享改正板には,本図のように京都所司代牧野備後守・大阪城代阿部伊勢守とあるもの,他の名のあるもの,名の無いもの,の異板三種があるという.
(2)日本海山潮陸図 元禄4(1691)年 相模屋太兵衛 初版
本朝図鑑綱目の日本図から,さらにデフォルメは進み,広くなった紙面全体を占めて配置された太身の日本図である.そのため四国などは90°回転してしまっている.江戸の街道口にはすれ違う旅人が描かれ,海には和船や唐船が多数浮かんでいるなど,装飾的要素も増している.記載された情報量も本朝図鑑綱目に比べると,さらなるニーズに応える形で格段に増えている.上杉によれば,増えた情報量は東高西低で,江戸での出版においては,畿内を超えた西国の情報源が乏しかったことに起因するらしい.
この地図が1715年に刊行されたレランドAdrien Relandの日本帝国図の基図であることはよく知られているが,あいにくと地形的には不正確な情報が伝えられることになったようだ.元禄16年板より東海道~江戸から大井川まで~
相模屋は元禄14(1701)年板からこの図の左端下方の潮汐回転盤を表に変えて,日本山海図道大全として宝永4(1707)年まで再版したが,翌年に板は山口屋権兵衛にわたり大日本国大絵図として享保10(1725)年ごろまで再版された.この板は享保15年に平野屋善六に渡った後,出雲寺和泉椽がこれを引き継ぎ,同名で延享2(1745)年から明和10(1773)年まで出版されたことが知られており,さらに刊行年無記入の図も存在している.これらは総称して,流宣大型日本図と呼ばれる.
・日本山海図道大全 元禄16(1703)年板 相模屋太兵衛 82x170/100x171cm
手彩色で海は青く塗られ,国の色分けは黄・赤・緑・灰・朱(酸化して一部黒変)と多彩で美しい.余談だが,最低何色あれば地図の色分けが可能であるか,それは4色のはずだが証明できないまま四色問題として1世紀以上数学者の課題となっていたが,1976年に証明され,その後追認され四色定理とされている.日本海山潮陸図の初版といえども,海は青いが,国は必ずしも色分けしていたわけではなく,むしろ国名を黄,宿場を黄か朱,山を緑にとどめている図も少なくはなく,むしろ日本山海図道大全のほうが国の色分けしたものは多い気もする.
大名や石高は手書きの付箋で一部修正されている.版木は縦3x横4に分割されていて,初期の板では印刷済みの紙をうまく貼ってついでいたようだが,手間がかかるため,その後,版元が変わってからであろうか,時代が下ると縦長の紙に上中下の板を繋げて印刷したうえで,それらを横に張り合わせて仕上げるようになったと見られる.次第に版木の継ぎ目が開いてくるらしく,後版では版面にも横に白いスリットが目立つようになってゆく.
・大日本国大絵図 享保15(1730)年板 平野屋善六 82x170/103x171cm
・大日本国大絵図 安永7(1778)年板 出雲寺和泉椽 81x171/85x174cm
これは,管見の限りでは世に知られていなかった板で,刊記のあるうちでは恐らく最後のものであろう.長久保赤水の改正日本輿地路程全図の刊行が翌 安永8年であることは興味深い.その出版後,日本図の主流は赤水図となる.すなわち,買い手の関心が従来の流宣図から,時代の変化によってより正確な地誌情報を求める様になったものと考えられよう.
参考:歴博より,流宣日本図の地理情報
主要文献:秋岡武次郎,日本地図史,1955 1997の復刻版による
地図出版の四百年 金田章裕・上杉和央, 2007
2014年のオークションからーフェルメールですか?
久しぶりに本題です.この初夏シーズンのロンドン・オークションでは,フェルメール作?とされる下記が,クリスティーズに出品されます.
「聖プラクセディス」画像はウィキペディアのフェルメールの作品の項より.
Barbara Piasecka Johnsonコレクションからの売り立てです.
個人的にはサザビーズのフランス・フランケン?世の作品に惹かれます.
出エジプト記の紅海渡渉とヨゼフの墓の発見のダブル・モティーフを描いた1630年の作品で,ヤン・ブリューゲル父子が活躍した時代のもので,20年ほど前に当時の東武美術館でご覧になった方も多いのではないかと思います.ベルギーのコペ男爵のコレクションの展覧会でしたが,今回もそれからの出品です.展覧会カタログを見直すとき,このような珠玉のコレクションが紹介された当時がしのばれます.昨今の展覧会は集客が成果と誤解されている向きもあるようですから.
フランス・フランケン?世は,装飾的かもしれないが,チャーミングな作風で,もっと評価されてよいフランドル・バロックの画家です.
「天界の詩」 (2)東洋編




1665(寛文5)
8-1
1675
序図のみ
8-2

鳴井(伊丹屋)茂兵衛板 五冊
11 三才發秘 唐本 陳雯(陳畊山) 1695(康熙34) 天・地・人の三部 12 天文瓊統 写本 渋川春海 1698(元禄11) 巻1のみ 13 天文成象 木版 渋川春海 1699(元禄12) 14-1,2 授時暦考当卦頭書 古暦便覧備考 刊本 苗村丈伯 1692・99(元禄5・12) 大坂・伊丹屋茂兵衛板;重訂4巻 15




江戸時代の日本地図 (2)長久保赤水の日本図 revised
日本輿地路程全図 76x115cm
この図は「日本輿地路程全図」という題箋で,薄手の紙に刷られ,体裁は19x10cmに小さく畳まれている.コンパスローズはあるが経緯線を欠き,無刊記で題辞や解説文などもないため,この図が赤水によるものかどうか確実な根拠はない.よくよくみると,各国の形状も微妙に異なっている.佐渡の傾きはこの図から安永8→寛政3年板まで順次反時計回りに変更されており,それらがわざわざ「改正-」と謳われている点からみれば,その先行版である可能性は否定はできないだろうが,対馬・隠岐の形状など日本海側の島嶼部や本州北端などの地形は,改正輿地路程全図の安永板とは相違があるものの寛政板に酷似している.このことから,本図は改正輿地路程全図の先行板と考えることが妥当か否かさらなる検討が必要であろう.本図は明治大図書館蘆田文庫蔵本と同じである.
ところで,以下の改正日本輿地路程全図の先行本としては,長久保家に伝わる手稿の「改製日本扶桑分里図」が存在している.これには明和5(1768)年の刊記があり、この能登半島と対馬の形状はやはり寛政板に類似するが,隠岐や本州北端の形状は安永板に似るとすれば,成立の経緯はさらに複雑であろう.
改正日本輿地路程全図 (内題:新刻日本輿地路程全圖) 安永8年第3板 安永八年己亥春 常州水戸 赤水長久保玄珠製 浪華 邨上九兵衛駘鐫字 淺野弥兵衛弘篤發行 83x134cm
赤水の記念すべき日本図初版である.国の塗り分けに緑色が用いられているためであろうか,あるいは大和絵の顔料を使っているのか,くすんだような手彩色が以下に比べると美しい.地の白を除くと国は5色の色分けで,これに湖海の青と城下町の異なった赤が加わった極彩色である。ちなみに神戸市立博物館所蔵品と比較すると,越中・尾張・備中などの灰紫色が加賀や備前と同じ灰色で塗られていて,8色に対して1色少ない.これは下記の蘆田文庫蔵本と同様である.
改訂が繰り返され,私見では安永8年板だけで5種を確認している.第一板は下北半島が鳶口型で,白地図に近い明治大図書館蘆田文庫蔵本や彩色のある国立天文台蔵本,UBC Beansコレクション蔵本などが確認できる.秋岡は安永板には少なくとも四板あるとしているが,「下北半島の尖るものしからざるもの,北海道の南部の狭いもの,広いもの,恐山,利根川等の字の有るもの,無いもの等」としか記載されていない.ただし,ここに引用した3か所に所蔵される第一板には全てに武蔵国の北東端に利根川の字はある.
第二版は明治大図書館蘆田文庫蔵本の如く①下北半島が斧型となり恐山も描かれているのが特徴的である.このほかに②津軽-蝦夷の位置関係が一版では蝦夷の渡島半島(おしまはんとう)の南端がコンパスローズの西にあるのに対し,二版ではコンパスローズの南側,さらに南の津軽・下北半島とに挟まれる位置に描かれる.③青森県南西部,白神山地の西の部分の極端な突出が,二版では改善される.
本図は第三板.佐渡島が西に傾くように反時計回りとなって,第二板では離れていた緯度線上に東に寄せて移されている.第四板は,早稲田大図書館の安永無刊記板(刊記部分が欠損していて補筆されている)のごとく凡例に囲み枠が作られるが,下北半島と男鹿半島の間にある大間崎の名前はそのままである.
これが第五板になると夏泊に修正され,そのまま寛政3年版に踏襲される.またこの板から恐山が南西の海岸寄りに移動されている.
後に寛政の三博士の一人となる柴野栗山の序文は安永4年になっているが,やはり秋岡によれば,享保以後大阪出版書籍目録に長久保源五兵衛 出願安永七年二月とあり,出版は翌8年になったと考えられている.さらに袋の刊記からは安永9年に刊行されたものもあるらしい.
寛政3年後版 85x133cm
寛政3年板になって,対馬と隠岐の間に榊原隠士の考證が追加され,安永板では12個あったコンパスローズは10個に減らされた.この板が赤水の手が加わった最後のもの、いわば完成板である.赤水没後のこの後の板には実際のところ目立った改定は認められない.私見では寛政3年板にも改訂があり2種があり,青ヶ島がポイント.後板では蝦夷の泊の北に地名が追加されるが,文化8年板以後は再び消されている.本図は顔料は鮮やかだが手彩色で,白以外の色分けは4色で前図と配色は異なっており,緑は山に用いられるのみだが,水の青と合わせて,6色が用いられている.早稲田の後板との比較では,安芸・石見・阿波・筑前の配色が黄と灰色が逆になっている.また,明治大図書館蘆田文庫蔵本も板は同一と思われるが彩色は異なっていて,こちらは国分けの無い白地図に山の緑と水の青,城下と地名の赤と黄が加わるのみである.文化8年6軒板以後は合羽刷りの色刷となるが,早稲田板の白以外4色の配色がその手本として定着しているようだ.ちなみに,茨城県立図書館にある赤水の書簡によれば,素摺が1枚17両,8色とされる極彩色が25両,4-5色に減色して安価にしたものが21両5分で販売されたらしい.
文化8年板 86x140cm
紀伊半島沖のコンパスローズの位置が東に移動している.UBC Beansコレクション蔵本など.これは6軒板だが,浪華が浅野のみの2軒板も存在する.刷りの状態からはそちらが先行版と思われる.
天保4年板 85x131.5cm
早稲田の同年板では海が沿岸しか塗られていない.
天保11年板 79x134cm
これは東西6軒板だが,浪華6軒板も存在する.
表紙 右から安永8(1779)年板,寛政3(1791)年板,文化8(1811)年板,天保4(1833)年板,天保11(1840)年板(この題箋は最近の糊で貼り直されて下付けになってしまったようだ)
刊記一覧 板の彫師は安永の村上九兵衛以外すべて京都在住で,寛政板が同じ九兵衛ながら畑(村上と同一人物かどうか?),文化板以後は井上治兵衛となっている.板元は浅野弥兵衛が中心となっていたが,天保11年板では外れている*.それ以外のメンバーは文化板以降変わっていない.
*浪華6軒板では浅野吉兵衛が加わっており,浅野星文堂を承継したものか.
安永3板の江戸近郊と伊予松山近郊
安永板と寛政板の間には膨大な情報量の増加がある.これらの板の表紙には寛政板以降「増修定本」,文化板以降「新分郡界」とあるので,その後も訂正追加があるはずであろうと期待してしまう.
左上 寛政3年後板 右上 文化8年板 左下 天保4年板 右下 天保11年板
江戸近郊に情報の追加や修正は見られないようだ.ただし,下図も含めて,字体などに微妙な差があり,板はすべて新たに彫り直されていると考えるのが妥当であろう.
左上 寛政3年後板 右上 文化8年板 左下 天保4年板 右下 天保11年板
伊予松山近郊にも情報の追加や修正はほとんど見られないが,赤線で描かれた道路が文化8年板から濱村と筒井の間に追加されている
ところで,松山と伊予郡松前町の境を流れる河川名がコムラ川となっていることが以前から気にかかっている.古来,この川は石手川と呼ばれていて,石手寺近くから流れる支流と南東の支流が合わさって海にそそぐが,その河口寄りの部分は慶長の頃に石手川の治水に功のあった足立重信(加藤嘉明の家臣)にちなんで重信川が現在の名称であり,コムラ川と呼ばれていたという史料は見たことが無い.おそらく赤水が初版稿において,何らかの引用資料の字体が不良であった縦書きの「石手」の字をカナのコムラと読んでしまったのではないかと推測する.
それでは,情報が増えていったと期待される本州北端と蝦夷については,どうだろうか.
上・左 安永8年3板 上・右 寛政3年後板 下・左 文化8年板 下・中 天保4年板 下・右 天保11年板
案に反して,寛政3年板でほぼ完成しており,以降はほとんど変化はない.道路の赤線がやはり文化8年板から下北半島に伸びてはいる.
このように細部を見てゆくと,板は各年板毎にすべて彫り直されており版木も変わっていると考えられ,その作業は大変なものだったに違いない.板が摩耗してしまうほどそれだけ需要があったということだろう.そこで以下のようなものも登場する.
このような無刊記・無彩色の図もあるが,紀伊半島沖のコンパスローズの位置から,文化8年板以降の板を基にしている.東洋文庫蔵の本図には「改正日本輿地路程全図」という刷題箋が貼られている.UBC Beansコレクション蔵本では一部彩色されている.
板橋→戸?橋やコムラ川→ロムラ川など誤記も少なからず,校正前の流出版というよりも海賊版のようだ.下2/3に焼けが強いが,紙質は通常の和紙ではない.そういえば,いわゆる越後版といわれるものがある.赤水作とされる喎蘭新訳地球全図・大日本国全図(赤水図と図柄は同様)・古今歴代中華地図・朝鮮琉球全図・蝦夷全図の五点揃いが白軟紙に印刷されたものだが,越後図と一緒に伝わるものがあるため,このように呼ばれているらしい.実際のところ,これらはその内容から海賊版とされている.機会があれば,このセットものの日本図を精査する必要があろう. 2014.3/31記 2015.12/30改訂
フリンク回顧展① -クレーフェとバーミンガム-
家人が実家に帰っているので,年末年始を家に籠るわけにもいかず,ホーファールト・フリンクの生誕400年の回顧展が昨秋から開催されているドイツ西端のクレーフェ(ドイツではクリーヴェと発音されている)と英国のバーミンガムの二都市を回る小旅行を10日ほど前に思い立った.クレーフェはフリンクの出身地で,デュッセルドルフからだと列車で1時間半でいける.デュッセルではスペインバロックのスルバランの回顧展もみられる.フリンクの足跡をたどる旅ならアムステルダム経由であるべきだが,クレーフェからの移動は列車では半ば戻るしかないので,ケルンでICEに乗りブリュッセルからユーロスターに乗り継いで英国に渡り,ロンドン経由でバーミンガムに向かうことになった.ロンドンで画廊やオークションハウスに寄るのもいいのだが,元日出発だとロンドンはあいにく日曜になるので,ブリッセルで久しぶりに王立美術館に立ち寄り,ついでに美食に与ることにした.帰国便が月曜午後だとバーミンガム大学付属バーバー美術研究所は当日の午前中に限られるが,月曜開館の美術館で幸いだった.ところが....
元旦の朝から下痢っぽくなり,空港に着いた頃がピーク.ただ胃症状も発熱もなくノロっぽさは低いので感染を広げる可能性は低そうだが,やはり旅行は断念すべきかと真剣に考えたものの,すでに搭乗時間になっていたので,ロペミンとブスコパンのお世話になりながら絶食の上,日中はほぼ絶飲に近い状態でトイレにはいかず数日を過ごす羽目になってしまった....
伊予大洲の志ぐれ
営業も兼ねて四国松山に行ったのですが,1泊して翌朝「伊予灘ものがたり」というJR四国の企画列車に乗って伊予の小京都・大洲へ行ってみました.天候に恵まれ,列車からの景色は2時間飽きることがありませんでした.
大洲では重文の櫓の残る復元された大洲城や,城主の残した遺構に明治期建築された臥龍山荘などを訪問しましたが,とくに山荘の断崖に立つ不老庵は槙の生木を捨て柱にして肱川の淵を見下ろし圧巻でした.ここの臥龍茶屋で戴いたぜんざいには丸餅が入っていて美味しかった.
道ですれ違う中学生の皆さんが必ず「こんにちは」と挨拶してくれるのに感激しました.なかにはHelloと言われて,どこの外国人に間違われたのかと....
土産には大洲名物のしぐれという和菓子を買って帰りました.ゆでた小豆と米粉を蒸したもので,もちもちした触感でほどほどに甘く,東京でも百貨店などで富永松栄堂のものが販売されています.今回はうっかりして同店のものは買い忘れたのですが,ほかの四社のものを食べ比べてみました.
(左上)二葉屋・・・・8切が竹皮で包まれていてそのためかえぐみ?があり好みが分かれる.甘さは控えめ.
(左下)ひらのや・・・小豆の香ばしさ,中では甘い.やや固めか.最小単位は3切れ分くらい.
(右上)丸星藤樹堂・・柔らかくもちもちで甘さ控えめ.大好物のおこう饅頭の味でした.最小単位は2切れ分くらい.
(右下)山栄堂・・・・最ももちもち,甘さは普通.個包装で食べやすく,梅や柚子味など多種類もあり,もち麦志ぐれがおすすめ.洋菓子もありましたが商品開発に余念がないようです.
むかし中学生のころ夕刻にこの予讃線の上りに乗っていると,上灘あたりでしょうか,海に映る夕陽が感動的で,こころの原風景となりました.死ぬまでにまたぜひ見てみたいですね.
資料(美術品・貴重書)の天敵の話
~この記事はあまり心地よい話ではありませんので,食事時には読まないで下さい~
ようやく繁忙期を抜けて時間を取れるようになった今日このごろ.初夏の連休を利用して二年間の懸案だった作業に取り掛かりました.
紙類資料の天敵は....そうですねぇ,光の照射でヤケたり,液体がかかることでシミ・シワが出来るといった物理化学的な問題もありますが,今回は生物として,黴(カビ)と害虫について.
どちらも古いものにはつき物ですが,カビはいたるところに胞子があるので,発芽しないように温湿度管理で対処します.カビの成長の水分源は空気中からまかなわれるのではなく,液体の水の存在が必要とのことで,急激な温湿度変化で結露することが問題なのだそうです.安定した条件では湿度70%までなら大丈夫らしい.常識的には湿度60%以下が目標,あとは資料の特性にもよりますが,紙自体も極端な乾燥下ではもろくなるようで50%以上が目安のようで,タペストリーや板絵や羊皮紙はさらに乾燥を嫌うので55%程度までが妥当でしょうか.
ただ,絶対的な胞子の数は増やしたくないので,カビが生えた後があって変色しているもの,カビ臭いものは持ち込まないに限ります.しかし,それが貴重書や大家の素描・銅版画だったら....
まずカビの生えた跡がアクティブかどうか,つまり菌糸が現在活動中なのかどうか? それにはムシメガネと日々の観察ですね.不幸にしてアクティブな場合は70%のエタノールがカビの菌糸を死滅させるのには有効といわれます.ちなみに文科省のカビ対策マニュアルはこちら
害虫ではありませんが,土蔵にある古書をかじるのはネズミで,かじられた跡はウマクイと呼ぶらしい.本の表紙には糊がついているので,それをかじって地図状の跡をつけるのはゴキブリ.けれども,そこそこ大きいものは駆除しやすい.
左:本の前小口の下方にウマクイ
中:ゴキブリの食害
右:いわゆる虫食い
しかして,和本をもっとも手ひどく荒らしてくれるのは....シミ(紙魚という虫)ですか?
いえいえ,これは表面の澱粉質,つまり糊をなめるだけらしい.
この小さな小さな虫が諸悪の根源,シバンムシです.紙が好物なのはほかにザウテルシバンムシがいるそうですが,たぶんフルホンシバンムシでしょう.古い本を買うと,オマケに付いてくることがあります.本当にあった話で,ある日,届いた和本をぱらぱらめくった後,机の上を見るとゴマ粒のようなものがゆっくり動いているではありませんか!そのときはつまんで成仏させてしまいましたが,もしやと思って調べると,やはり.そういえば,むかし米びつの中に何匹か見たことがあるのと見かけは同じ....食性の差があるようですね.自然界の多くのシバンムシは枯れ木を主食としているようで,額縁や彫刻などの木材のほうが好物だとか....
それからというもの,気が気ではなく,あの本やあの地図にどんどん虫穴が広がっている悪夢を何回見たことか.害虫はとにかく持ち込まないことが肝要です.
もともと置かれていた旧家の蔵や古書店の倉庫に巣くっているとすれば,入手先に注意することも勿論ですが,キチンと管理されている古書店さんであっても品の出入りは不可欠なので,あらたにムシ付きが入ってくることもあるでしょう.従って,新入りさんはかならず,白い紙を広げた上で検品し,ゴマ粒を探すこと,それから,幼虫と卵まで処理しなければなりません.
従来は燻蒸といって,毒性の強い薬品(臭化メチル)をバルサンのように密閉した収蔵庫で焚くという手法が一般だったそうですが(当館の油彩画もある美術館に貸し出し中に燻蒸していただいたことが10年以上前にありました),いまはオゾン層破壊の原因となるので,臭素(ブロム)系燻蒸剤の使用は全面禁止になっているようです.いずれにしても,住宅では健康被害の恐れがあり,はなから無理なこと.
それに変わる方法としては,電子レンジに数秒かけるという話もあり,理屈からは虫卵も駆除できるわけですが,時間をかけすぎると痛んでしまうらしく,彩色のない安手の本ならいざ知らず,高価なものはちょっと無理でしょうね.
あれこれ調べて到達したのが,脱酸素療法(ネーミングは適当です),正式には低酸素濃度処理法と呼ぶそうですが,密閉して酸素を奪い虫を窒息させる方法です.大学の研究室でも使用されている由で*,某社から販売されている脱酸素剤を規定量使用して,酸素チェッカーのタブレットの色を見ていくと,はじめ青紫色になっていますが,24時間ほどで赤みを帯びてきて,48時間ほどでピンクに変わり,脱酸素はうまくいったようです.
1は密閉袋の中にビニール小袋を二重に折り畳んだのまま入れてしまったため,酸素が残っていてまだ青みの強いチェッカー
結局ピンク色になるのには1週間ほどかかりました.さらに気密性が高いと,2週間かかったものもあり,個別包装はしないほうが得策です.
2は同じ状態でスタートした密閉袋内のむき出しのチェッカーで,1日後でやや赤み(赤紫色)がでている状態
3は2日後のチェッカーでピンク色になっていて無酸素化できたようです.下に敷きつめられているのが脱酸素剤ですね.
このタイプは一袋で2リットル分の空気中の酸素を奪うので,A4ファイルサイズの収納箱をそのまま密閉するのに10袋でなんとか有効であったようです.作業は可及的速やかに行わなければ,同剤の効果は落ちてしまいます.30分以内とのこと.密閉袋からはできるだけ空気を追い出した方が効率はよく,できれば複数の手でやったほうがいいし,掃除機などで吸引すると良いのだが,そんなことをするとムシ嫌いの当館学芸員の目が釣りあがってしまうことでしょう.
成虫(例のゴマ粒みたいな)>幼虫>卵の順で有効ですが,基本的に2週間,1ヶ月置けば虫卵も駆除できていると目されます.温度が20℃以下だとムシが休眠状態となって窒息しにくくなるようです.逆に温度が高いほど生物の酸素消費量は増えるので,この季節だともう少し短時間で済むことでしょう.ただ,小袋などにはいった和本もそこそこあったので,その脱酸素化にはもう少し時間がかかりそうで,2ヶ月ほどこのまま様子を見てゆくことにしました.
上の成虫の写真は,作業が終わってやれやれと扉を出て,隣室の白い壁をぼんやり見ていて....見つけてしまったものでした.作業中に少し開けていた扉の隙間から,飛んで出たものか....地図の大きなものや軸物は密閉袋に入らないので,一部はむき出しにしていたし,タペストリーはかかっているし....雌雄の成虫がランデヴーしていないことを祈るしかないなあ,がっかりの顛末.床の茶色と壁の青が恨めしい一日となりました.広いストックヤードが欲しいですね.成虫駆除だけならバルサンもいいかもしれないが,展示品への影響はないものか....
フェロモントラップもあるようですが,タバコシバンムシとジンサンシバンムシ用しか市販されていませんでした.
物を持つことは大変です.後世に貴重な文化財を引き継ぐことはもっと大変ですね.文化財の総合的有害生物管理(IPM)が日本の博物館でも導入されています.
蛇足ながら,現代では「虫干し」とは主として秋の穏やかな日和に陰干しすることを言うようですが,古来は7月に行われていたようで,成虫の出鼻の時期に資料をチェックして,虫害の拡大を防ぐという理にかなったものでした.土用虫干しというそうです.
*「東京学芸大学所蔵古書籍の虫害状況と保管法に関する研究」,2003
「宇宙と芸術」展 森美術館
アマゾンで頼んでいた同展の図録が届きました.
予想通り,なかなか面白い和洋の天文関係資料が展示されるようで,稀覯書を除けば私が「こんな展示をやってみたい」と思うところを衝いています.
和(東洋)では,まず「星曼荼羅」4点,鎌倉時代の円形も南北朝の方形も含まれています.江戸時代とされる方形のものでは蟹と牡牛が入れ替わっていますが,誤写で伝承されたものでしょう,ときどき見かけますね.展示替えされるので,全部見るのには4回行かなければなりません.そのほかも展示替えが多いので「作品の展示替えについて」で確認していかないと後悔します.また,須弥山図は「世界大相図」のみですが,からくり儀衛門の「須弥山儀」が出品されます.龍谷大学の所蔵品が多いですね.
次に天球図ですが,中国の「淳祐(蘇州)天文図」(拓本)と渋川春海の「天文分野之図」「天文成象」,司馬江漢の天球図(これは持っていない)は定番といったところです.
ほかには,五島プラネタリウム旧蔵品でしょうか,18世紀清朝の銅製天球儀(重いのでしょうか?),和製渾天儀もあり,これに国友一貫斎の反射望遠鏡などが加わります.
西洋では,天球図は主に千葉市立郷土博物館所蔵のセラリウス「ハルモニア・マクロコスミア」の第二板から3葉などで,天球儀はやはり同館所蔵のドッペルマイヤーによるものでした.同館のコレクションではアピアヌスの「天文学教科書」が最も稀覯でこれに天球図があるし、ほかに17-19世紀の有名な星座図集も所蔵されているので,それらも一緒に展示していただけるとよかったのですが....そういえば,デューラーの天球図は以前西美の展覧会でドレスデン美術館の所蔵品が展示されていましたね.
天文機器では16-17世紀の渾天儀2種,アストロラーベやリング・サンダイヤルなどは,日本では見る機会が少ないでしょう.ほかには,19世紀のアダムスの反射望遠鏡などもあります.
むしろレオナルドのアトランティコ手稿が目玉なのですが,16~17世紀の天文学の稀覯書の初版本も多く,ガリレオの「星界の報告」初版刊本やその改訂版の手稿,コペルニクスの「天球の回転について」,ケプラーの「新天文学」,ニュートンの「プリンキピア」などが展示されています.
そうそう,この展覧会は4部構成ですが,ここまでご紹介したのは第一部だけです.このほかに近現代の展示物がたくさんあるようですが,守備範囲外なので会場でご覧ください.
資料(美術品・貴重書)の天敵の話
~この記事はあまり心地よい話ではありませんので,食事時には読まないで下さい~
ようやく繁忙期を抜けて時間を取れるようになった今日このごろ.初夏の連休を利用して二年間の懸案だった作業に取り掛かりました.
紙類資料の天敵は....そうですねぇ,光の照射でヤケたり,液体がかかることでシミ・シワが出来るといった物理化学的な問題もありますが,今回は生物として,黴(カビ)と害虫について.
どちらも古いものにはつき物ですが,カビはいたるところに胞子があるので,発芽しないように温湿度管理で対処します.カビの成長の水分源は空気中からまかなわれるのではなく,液体の水の存在が必要とのことで,急激な温湿度変化で結露することが問題なのだそうです.安定した条件では湿度70%までなら大丈夫らしい.常識的には湿度60%以下が目標,あとは資料の特性にもよりますが,紙自体も極端な乾燥下ではもろくなるようで50%以上が目安のようで,タペストリーや板絵や羊皮紙はさらに乾燥を嫌うので55%程度までが妥当でしょうか.
ただ,絶対的な胞子の数は増やしたくないので,カビが生えた後があって変色しているもの,カビ臭いものは持ち込まないに限ります.しかし,それが貴重書や大家の素描・銅版画だったら....
まずカビの生えた跡がアクティブかどうか,つまり菌糸が現在活動中なのかどうか? それにはムシメガネと日々の観察ですね.不幸にしてアクティブな場合は70%のエタノールがカビの菌糸を死滅させるのには有効といわれます.ちなみに文科省のカビ対策マニュアルはこちら
害虫ではありませんが,土蔵にある古書をかじるのはネズミで,かじられた跡はウマクイと呼ぶらしい.本の表紙には糊がついているので,それをかじって地図状の跡をつけるのはゴキブリ.けれども,そこそこ大きいものは駆除しやすい.
左:本の前小口の下方にウマクイ
中:ゴキブリの食害
右:いわゆる虫食い
しかして,和本をもっとも手ひどく荒らしてくれるのは....シミ(紙魚という虫)ですか?
いえいえ,これは表面の澱粉質,つまり糊をなめるだけらしい.
この小さな小さな虫が諸悪の根源,シバンムシです.紙が好物なのはほかにザウテルシバンムシがいるそうですが,たぶんフルホンシバンムシでしょう.古い本を買うと,オマケに付いてくることがあります.本当にあった話で,ある日,届いた和本をぱらぱらめくった後,机の上を見るとゴマ粒のようなものがゆっくり動いているではありませんか!そのときはつまんで成仏させてしまいましたが,もしやと思って調べると,やはり.そういえば,むかし米びつの中に何匹か見たことがあるのと見かけは同じ....食性の差があるようですね.自然界の多くのシバンムシは枯れ木を主食としているようで,額縁や彫刻などの木材のほうが好物だとか....
それからというもの,気が気ではなく,あの本やあの地図にどんどん虫穴が広がっている悪夢を何回見たことか.害虫はとにかく持ち込まないことが肝要です.
もともと置かれていた旧家の蔵や古書店の倉庫に巣くっているとすれば,入手先に注意することも勿論ですが,キチンと管理されている古書店さんであっても品の出入りは不可欠なので,あらたにムシ付きが入ってくることもあるでしょう.従って,新入りさんはかならず,白い紙を広げた上で検品し,ゴマ粒を探すこと,それから,幼虫と卵まで処理しなければなりません.
従来は燻蒸といって,毒性の強い薬品(臭化メチル)をバルサンのように密閉した収蔵庫で焚くという手法が一般だったそうですが(当館の油彩画もある美術館に貸し出し中に燻蒸していただいたことが10年以上前にありました),いまはオゾン層破壊の原因となるので,臭素(ブロム)系燻蒸剤の使用は全面禁止になっているようです.いずれにしても,住宅では健康被害の恐れがあり,はなから無理なこと.
それに変わる方法としては,電子レンジに数秒かけるという話もあり,理屈からは虫卵も駆除できるわけですが,時間をかけすぎると痛んでしまうらしく,彩色のない安手の本ならいざ知らず,高価なものはちょっと無理でしょうね.
あれこれ調べて到達したのが,脱酸素療法(ネーミングは適当です),正式には低酸素濃度処理法と呼ぶそうですが,密閉して酸素を奪い虫を窒息させる方法です.大学の研究室でも使用されている由で*,某社から販売されている脱酸素剤を規定量使用して,酸素チェッカーのタブレットの色を見ていくと,はじめ青紫色になっていますが,24時間ほどで赤みを帯びてきて,48時間ほどでピンクに変わり,脱酸素はうまくいったようです.
1は密閉袋の中にビニール小袋を二重に折り畳んだのまま入れてしまったため,酸素が残っていてまだ青みの強いチェッカー
結局ピンク色になるのには1週間ほどかかりました.さらに気密性が高いと,2週間かかったものもあり,個別包装はしないほうが得策です.
2は同じ状態でスタートした密閉袋内のむき出しのチェッカーで,1日後でやや赤み(赤紫色)がでている状態
3は2日後のチェッカーでピンク色になっていて無酸素化できたようです.下に敷きつめられているのが脱酸素剤ですね.
このタイプは一袋で2リットル分の空気中の酸素を奪うので,A4ファイルサイズの収納箱をそのまま密閉するのに10袋でなんとか有効であったようです.作業は可及的速やかに行わなければ,同剤の効果は落ちてしまいます.30分以内とのこと.密閉袋からはできるだけ空気を追い出した方が効率はよく,できれば複数の手でやったほうがいいし,掃除機などで吸引すると良いのだが,そんなことをするとムシ嫌いの当館学芸員の目が釣りあがってしまうことでしょう.
成虫(例のゴマ粒みたいな)>幼虫>卵の順で有効ですが,基本的に2週間,1ヶ月置けば虫卵も駆除できていると目されます.温度が20℃以下だとムシが休眠状態となって窒息しにくくなるようです.逆に温度が高いほど生物の酸素消費量は増えるので,この季節だともう少し短時間で済むことでしょう.ただ,小袋などにはいった和本もそこそこあったので,その脱酸素化にはもう少し時間がかかりそうで,2ヶ月ほどこのまま様子を見てゆくことにしました.
上の成虫の写真は,作業が終わってやれやれと扉を出て,隣室の白い壁をぼんやり見ていて....見つけてしまったものでした.作業中に少し開けていた扉の隙間から,飛んで出たものか....地図の大きなものや軸物は密閉袋に入らないので,一部はむき出しにしていたし,タペストリーはかかっているし....雌雄の成虫がランデヴーしていないことを祈るしかないなあ,がっかりの顛末.床の茶色と壁の青が恨めしい一日となりました.広いストックヤードが欲しいですね.成虫駆除だけならバルサンもいいかもしれないが,展示品への影響はないものか....
フェロモントラップもあるようですが,タバコシバンムシとジンサンシバンムシ用しか市販されていませんでした.
物を持つことは大変です.後世に貴重な文化財を引き継ぐことはもっと大変ですね.文化財の総合的有害生物管理(IPM)が日本の博物館でも導入されています.
蛇足ながら,現代では「虫干し」とは主として秋の穏やかな日和に陰干しすることを言うようですが,古来は7月に行われていたようで,成虫の出鼻の時期に資料をチェックして,虫害の拡大を防ぐという理にかなったものでした.土用虫干しというそうです.
*「東京学芸大学所蔵古書籍の虫害状況と保管法に関する研究」,2003